近現代アジア史備忘録

中国・台湾史などについて徒然書く予定です。現在試運転中。

もう一つの中華民国政府-広東政府(2)

継続(第二次)軍政府

一方、1919年に中国国民党を結成した孫文は軍政府の打倒を図り、19202月になると粤軍司令として福建に駐留していた陳炯明に軍政府を攻撃するよう要請しました。また6月には孫文側は、軍政府と広州に残っていた国会の正統性を否定しました。陳炯明軍が駐屯地の福建から広東に進軍を始めると、元来広西派の支配に不満を抱いていた広東省の地元勢力はこれを歓迎し、11月には陳炯明軍が広東省を制圧して広西派を駆逐、同月に孫文らが広東政権に復帰します。この継続軍政府に当初は雲南軍閥の唐継堯、貴州派軍閥の劉顕世が参加したましが、彼らは間もなく失脚し、継続軍政府は広東省の単独政権という位置づけとなります。

 

孫文と陳炯明の対立

19214月、孫文は広州で開かれた旧国会により中華民国大総統に任命されました。これにより広東軍政府は収束し、広東政府は「中華民国政府」(正式政府)を称します。しかし一方で粤軍総司令・広東省長として広東を実力で掌握した陳炯明は「連省自治」を主張し、北伐による中国の武力統一を求める孫文と対立していきます。

 

19226月、両者の対立は最高潮に達し、遂に陳炯明軍が孫文を襲撃して、孫文は広州から上海に逃れました。しかし陳炯明の広東単独支配は長続きせず、同年末から孫文派の反撃を受けて翌19231月に陳炯明は恵州に退き、孫文が再び広州に復帰して「中華民国大元帥府」を建てました。

 

・第一次国共合作から国民政府へ

孫文は広州に戻る前の192212月、上海にて孫文・ヨッフェ宣言を出して国共合作を決定します。孫文は臨時約法と旧国会に自らの正統性を依拠する従来の方針を改め、19241月の国民党一全大会を経て、国民党が主導する「国民政府」を新たに樹立する方針を同年4月に発表しました。(国民政府建国大綱)こうして中国の「国民革命」が始まっていきます。

 

19253月に孫文が死去すると、広東政府は同年7月に正式に「国民政府」を名乗ります。広州の国民政府は1926年から北伐を開始しましたが、一方で国民党右派と中国共産党の対立が次第に激化し、国民党内でも左右両派の対立が深刻化していきます。192711日には汪兆銘ら国民党左派の主導で国民政府が武漢に移転しましたが、国民党右派はこれに反発し、412クーデターを経て418日に蒋介石・右派主導の南京国民政府が成立しました。その後7月の武漢政府の国共合作解消を経て、国民政府は南京国民政府へと収斂されていくのです。

 

1923年以降の「国民革命」については、また改めてあげたいと思います。

 

参考文献

深町英夫「広東軍政府論-民国前期における「中央政府」-」『民国前期中国と東アジアの変動』中央大学出版部、1999

川島真「広東政府論-初期外交からの検討」『昭和・アジア主義の実像―帝国日本と台湾・「南洋」・「南支那」』ミネルヴァ書房2007